東大寺修二会に参籠して
薄暗い堂内を、木靴の大きな音がゴットゴットと駆け、絞り出すような太い声で唱える声明が凛とした空気を更に緊張させる。一人の練行衆が内陣から薄い戸帳をくぐり、礼堂に出てきて姿勢を正す。徐に大きく身体を跳ね上げたかと思うと、堂内に敷かれた南北に長くて分厚い板に膝から全身を打ちつける。「ダーン」と大きな音が堂内に響く。初めて目の当たりにした光景が「五体投地」とは分からず、薄い座布団のようなものが敷かれているとはいえ、膝を壊さないかと心配になる。
東大寺様の「修二会」には、ずっと以前より参籠したいと思っていた。この法要を知ったのは、歌手のさだまさしさんのコンサートで聞いた曲「修二会」だった。歌詞の中に出くる「青衣(しょうえ)の女人・南無観世音・五体投地・女人結界」という言葉から、なんと仏教的な歌詞だろうと、興味を持った。
縁があって、全日本仏教青年会の毎年四月二十六日に行われる「仏法興隆花祭り千僧法要」に参列させて頂くようになり、果ては十七期理事長まで務めさせて頂き、東大寺様との深いご縁が出来た。今回、当時大変にお世話になった現東大寺上院院主の狭川普文さんに、修二会に参籠したい旨を話すと、一声返事で「来なさい」と。早速、法友に声をかけ、五名で参籠する事とした。
狭川さんは、どんな法要が行われるかも解らない私達に、カラーコピーで資料を人数分印刷し、お送り下さった。それを読んでさえも、法要の全体が見えてこない。当日(三月七日)を向かえ、取敢えず、一路奈良に向かい、午後四時に宿に入る。五時半頃、東大寺二月堂に上がり、如法衣に袈裟を着け、時を待つ。職員の方に伺うと、これから小(こ)観音が内陣に出られるが、中に入れるのは東大寺の僧侶だけとのこと。教えて頂き、一般参拝者と、格子の外側から、薄暗い堂内に眼を凝らす。松(しょう)明(みょう)役(やく)が、宵(よい)御輿(みこし)松明(たいまつ)に点火するのを合図に、伶人(れいじん)が雅楽を奏し始める。天井を焦がすかのような松明に誘われるように現れた御厨子は、礼堂西北の設けの座に安置される。長い時をかけ、丁重に荘厳をし終わると、和上から順に御厨子を礼拝する。後には、手向山八幡宮の宮司が御厨子警護のために残る。
気が付けば、日は暮れ、七時近くになっている。二月堂下には、御松明の火の粉を浴びようと大勢の観光客が時を待つ。七時を過ぎると練行衆が一人ずつ、大きな松明に導かれ上堂する。松明は回廊へとまわり、火の粉を散しながら一巡する。大きな歓声が上がるが、対照的に堂内はひとつの物音さえしない。全ての練行衆が上堂を終え、娑婆古練と呼ばれる長老たちが入堂すると、ようやく入堂を許される。事前に言われた座位を目指し、暗闇の中を手探りで内陣に向かい礼堂に座る。格子を背にして座ると、息遣いを感じる。ふと振り返ると、格子の外には、入堂を許されない方々が肩を寄せ合い、息を潜めている。この格子が女人結果だと思うと同時に、ご縁に再び感謝する。初夜の行事から、半夜、走りと全てが初めて眼にすることばかり。聴きなれない声明に耳を澄ますが、解ったのは、当初「南無十一面観世音菩薩」と唱えていた念仏が、最後には「南無観」となった事と、「神名帳」と言われる日本全国522柱の神々の名前を読み上げる行法で、一番に「金峯の大菩薩」が読まれた所だけであった。
走り行法が始まる直前、堂童子によって戸帳が巻き上げられ、この時ばかりは内陣がよく見えた。木靴で「ゴットゴット、ゴットゴット」とけたたましく音を立てながら内陣を走りまわる。練行衆達は、列の中から一人ずつ礼堂に出てきて、激しく五体投地を行う。全員が走りの行法を終えた後、聴聞者にも閼伽井屋(若狭井戸)から汲み上げられ、千二百六十五年前から使われている香水壺に蓄えられ、行法に使われた香水がふるまわれる。私も両手で器を作りしっかり差し出した。施された香水はありがたく口に含んでみたが、体の悪いところにつけても良いと、後で知る。
何れにせよ、我が宗門(曹洞宗)で行われる布薩を想像していたが、それとは大きく異なり、乾いた埃っぽい堂内に自然の灯り、小観音厨子や、練行衆を導く為に焚かれる天井を焦がす松明、独特な声明に、呼応するかのような法螺や鈴の音、そして堂内に響き渡る五体投地の懺悔の音。初めての参籠は、古の南都仏教の真髄に少し触れられたような気がした。